根津美術館を訪れる楽しみの一つに、都会のオアシスとも言われる庭園の散策があります。1階の庭園口、または地階の茶席口から出て石畳の小径を進み樹々の中へ入ってゆくと、茶席やさまざまな石造物が見えてきます。ここは、その起伏に富んだ土地を気に入った初代根津嘉一郎が明治39年に求めた場所です。深山幽谷の趣のある庭園を造り、田舎家風の建物や茶席を配し、大正2年にはその成果を世に問うとして「庭園講評会」を行いました。
新しい美術館の建設に際して、主要な園路をこれまでの飛び石から歩きやすい石畳に改めました。自然そのままの景観を作り出した初代の意を汲みつつ、誰もが散策を楽しめる庭園に作り替えたともいえます。美術館鑑賞のあとに、緑豊かな庭園の四季の移ろいをお楽しみください。
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南に池を望む弘仁亭は明治末に建てられた書院茶室を移築し、四畳半の無事庵が添っています。
五畳台目下座床の珍しい閑中庵は、元は斑鳩庵に付属したもので、平成3年に現在の場所へ移築され、四畳半囲炉裏構えの牛部屋とともに使われています。
二代嘉一郎が還暦を記念して揮毫した扁額のある披錦斎には、明治32年に大阪伏見町に建てられた茶室を移築した一樹庵が添います。
斑鳩庵は、江戸末期に本所に建てられた茶室が益田克徳邸に移築され、さらに昭和30年に根津美術館へ移築されたものです。清渓亭はこれに付属します。
かつての根津家邸内の指標であった舟形の蹲(つくばい)を朝鮮灯籠と組み合わせ、灯籠の光を月光に、石舟の形に三日月をなぞらえました。
弘仁亭の前に広がる池には、毎年4月末ごろに燕子花がみごとな花を咲かせます。光琳の「燕子花図屏風」もそのころ展示されます。
弘仁亭の西側の筧(かけい)をたどると山中の沢を思わせる風景に…。一番奥の岩から落ちる水を那智瀧に見せて、東熊野と名づけました。
庭園南西、銅造の観音菩薩立像を中心に石仏や石塔を集めた丘を、観音が住むPotalakaにちなんで、ほたらか山としました。
薬師堂として伝わった宝形造(ほうぎょうづくり)の建物。孟宗竹の林を背景としたたたずまいには、静かな古都の雰囲気さえ感じられます。
披錦斎の「錦」は、色とりどりの紅葉を意味します。額字は二代根津嘉一郎が揮毫しました。初夏の青葉も楽しめます。
池の中の据えられた石の井筒からは、今でも地下水が吹き出しています。燕子花からの連想で『伊勢物語』の筒井筒(つついづつ)の段が思い起こされます。
天神となった菅原道真が中国で参禅した姿を表した、石造の渡唐天神像が祠(ほこら)の名は、飛び梅伝説が踏まえています。